岡康道さんに憧れて – 20年越しの誓い –

日本を代表するCMプランナーでクリエイティブディレクターの岡康道さんが、7月31日に逝去した。本当に驚き言葉にならない…。
1990年にグラフィックデザイナーとして広告業界へ入った私にとって、もっとも心を惹かれるCMを創られていた一人が岡さんだった。井上陽水の結詞と駅長さんと美しい風景のJR東日本「その先の日本へ」。矢沢永ちゃんがサラリーマンに扮したサントリー「BOSS」。女子高生が女性教師にドキッとする一言をいう「南アルプス天然水」…。
それらのCMに魅入っていた頃、月刊「創」1996年7月号に書かれていたコラムを読み、一気に惹きこまれていった。自分の人生と創ったCMが交差する文章。それを読み、制作者としての考察に、背景にあった人生に、そして岡さんという人物に強く惹かれたのだった。
その時代、広告制作者のバイブルであった「広告批評」では、広告学校という講座を開いていた。講師は当時のクリエイティブ界のスター達。その中に岡さんの名前もある。いやー私なんて全然ダメだし…とモジモジする時期を経て、岡さんが講師をしていた「星組(CMプランニング中心)」にやっとこさ行くことにした。
当時星組では、白土謙二さん(当時 電通CMプランナー)、小野田隆雄さん(コピーライター)、黒須美彦さん(当時 博報堂CMプランナー)、そして岡康道さんの4人が講師で、一人3講座×4人というプログラム。
講座では「○○についてのCMを考えよ」と、与えられたお題についてのCMコンテを提出し、添削されて返ってくる。授業では、講師がピックアップした秀逸な案をシェアし、皆でディスカッションするという形式だった。
そんな中、岡さんのお題は「私のこの一年」について800字以内で書け。ほかの講師とは違うアプローチのお題で、ほーと思いつつ、ちょうど厄年だった私はそのことについて書いた。「読みやすいけれども小手先で処理された感じが残る。君がどういう人かは全然わからない」。そう添削されて返ってきた。ショックだった。
広告制作の仕事をして7年以上が経とうとしていたが、正直にいうと、主体的に考える仕事はしていなかった。ディレクターや営業、なによりクライアントの指示に沿ったものをカタチにするだけ。自由に考えてよい、という状況はないと思っていた。ましてやmixiもなかった時代、日記も3日坊主の私は、自分について文章を書くことは皆無だっだ。自己開示を恐れていたのかもしれない。それを見抜かれたような気がした。
広告学校での成績(修了後に「実習成績記録表」というものをもらった)は散々で、こんなんでこの先クリエイティブの仕事を続けるんかい?と深く落ち込んだ。が、間もなく別の専門学校で「岡康道のコピー教室」なるコースが開催されると知り、尽かさず申し込んだ。
広告学校の講座はスタークリエイター講師が勢ぞろい。生徒数も多く、広告学校のスタッフが「はいはい、これ以上近づかないで」と言っているようで、講師と生徒の間がとても遠く感じられた。だが「岡康道のコピー教室」は生徒が20名ちょい、スタッフの人が一回目だけ来てあとはよろしく的な感じで、岡さんと生徒たちがとても近かった。
一回目の講義のお題は「私のこの一年」。今年2回目になるこのお題。今回は私にとっての大きな出来事、すなわち岡さんとの出会いで感じたこと、考えたことを素直に書いてみることにした。岡さんのファンであること、岡さんの講座に2回通ったこと、添削にショックを受けたこと、表現について思うこと。
岡さんからは「文章がよくなっている。自分の言葉で書いているので、君の考えていることが伝わってくるようになった。少しホッとした。2度も生徒になってもらい、同じ課題で伸びなかったらヤバいもんな。」と書いてあった。そして「君も僕と同じような人間なら、少なくとも表現には向いている人だと思う。がんばろう。」
キャー――――ッ♡♡♡となった。
2回目以降は、クリントン大統領支持率アップCM、ストップAIDS!CM、景気回復CM、湯川専務のおわびCMというお題が出され、自分なりに精一杯考えた。出来映えはおいておいても、そのときのベストを尽くして考え表現したことは、自分なりの達成感をもたらした。
ちょうど年末年始をはさんでのコースだったので、忘年会をやろうということになり、20人ぐらいの生徒で岡さんを囲んだ。岡さんはお酒が飲めなかった。酒強そうな面持ちなのに。岡さんと生徒一人一人との2ショット写真を撮ろう、ということになり(みんな岡さん好きですから)、私はカメラマン役に。
一人づつ順番に岡さんと並び、私がポラロイドのシャッターを押していく。出てきた写真に、岡さんが一言メッセージを添えていく(今にして思えば、20人分大変ですよね)。トリを飾った私との写真には「広告は世界一楽しい仕事だよね 岡康道」と書いてくれた。一生の宝だ。
年が明けての講義で、岡さんはクリエイティブエージェンシーの話をした。ヨーロッパのクリエイティブエージェンシーを視察に行ったとのことだった。当時日本の広告業界は、TVや新聞、雑誌など媒体の枠を買う手数料(コミッション)が利益となるビジネスモデルであった。企画やクリエイティブはおまけみたいな金額。しかし、欧米などでは、企画やクリエイティブに直接対価が支払われ、フィーで成り立っているクリエイティブエージェンシーが存在する。
それを直に見た岡さんは、これだ!と思ったようで、私たちにもその話を熱く語っていた。それから程なく電通を退社し、岡部(おかぶ)のメンバーだった川口清勝氏、多田琢氏、麻生哲朗氏と日本初のクリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を設立する。
広告業界の歴史的瞬間をすみっこのほうから垣間見ていたんだな、と後になって感慨深く感じたものだ。
「岡康道のコピー教室」を修了した後の私といえば、勤めていた中堅広告代理店から契約を終了すると告げられ、大きな人生の転機を迎えた。思ってもみなかったことだが、アメリカ留学へ行くことにしたのだ。広告学校などの講座に通い、才能のなさを痛感した私は、まったく違う方向転換を試みた。自分の世界を広げようと思ったのだ。
1999年5月に退社し、9月にニューヨークへ旅立った。外国人とまともに会話した記憶のないその頃の自分にとって、今思えばありえないほどの無謀ぶりだが、若さゆえ(じつはそんなに若くなかったが)。岡さんの「これからは英語とITが必須になる」という言葉も大きかったかもしれない。
ニューヨークでは語学学校に通いつつ、School of Visual Arts (SVA)の単科コースにも通う。History of Advertising and Graphic Design(広告とグラフィックデザインの歴史)を学ぶコースと広告キャンペーンを企画する、2つのコース。足りていなかった訓練をしたわけだが、英語でのディスカッションやプレゼンテーションはめっちゃキツかった。
キャンペーン企画で考えたアイディアや切り口は、アメリカの人にはハテナと思うらしく、文化の違いや面白味のツボが違うんだなということを実感した。たとえば、若者が鏡を見ながら身支度しているシーンを設定したが、その男子の髪形やタンクトップはゲイの人がするものだとか。それでも、面白いとか、絵が素敵とか言ってもらったり、歴史の論文では田中一光さんのことを書いてA評価だったりした(英語の先生に添削してもらいましたが)。
帰国後、岡さんがTUGBOATを設立したと聞き、そこへ何とか参画できないかと考えた。つまりTUGBOATに転職できないものかと、思い切って履歴書を郵送した。「岡康道のコピー教室」のとき、クラスの名簿を(有志で自主的に)作成していて、岡さんの住所を知っていたのだ(今では考えられないけれど、そのときは書いてくれていた)。数日後、「あて所に尋ねあたりません」スタンプがバーンと押された封筒が戻ってきて、あえなく撃沈した。
その後は、インターネットの時代に遅れまいとIT系の制作会社に入り、Web制作をやるように。クリエイティブについて学んだことをあまり活かせない環境に身を置いて、だいぶ経ってしまった。
そうして岡さんのことは時々なにかの記事で目にし、傍目で見るだけに。2007年頃、日経ビジネスオンラインで「人生の諸問題」の記事を読み久々にキャーッ♡だったが、それ以降岡さんについては、記事を楽しみに読むだけの日々となった。
2014年、私はWeb制作会社の後に転職した広告会社を辞め、興味を持った終活や介護に関することで何かしたいとフリーに転身した。思いがけず(というか無計画)、数多くの良い出会いに恵まれ、あらたな道が見えてきた。
広告ではない、もう他の場所に来てしまったと思うが、岡さんに学んだこと、クリエイティブへの不完全燃焼は、実はすこし残っていた。でもまあもういいよね、と思う大人になった自分。。
2020年7月31日、信じられないツイートを目にした。「岡康道さんの訃報が・・・」がと書いてある。え?岡さん?岡康道さん、訃報?まったく予期せぬ文字の組み合わせ。日経ビジネスオンラインの記事でしかお目にかかっていなかったが、小田嶋さんは入院とか検査とか書いてたけど、岡さんのそれはまったく見ていない。
うそでしょう?と思いつつ、Twitterを検索してみると関連するツイートが見つかる。そして佐賀新聞に訃報記事が掲載された。えー、信じられない。なんでなんで??しばらくして、残間里江子さんのブログを目にする。そこには最近の経緯が書いてあり、そうだったのか…と思いを馳せる。
残間里江子さんのブログ
【7/31】急逝した岡康道さんのこと。
https://www.club-willbe.jp/zamma2/2020731.html
残間さんのサイト「club willbe」では、岡さんのインタビュー記事が再掲されていた。あー、もっと早くこの記事に気づいていれば。そして、「willbeアカデミー」というのにも岡さんが登壇しているではないか。もっと早く知っていれば…。
月刊Hanadaにもコラムを書いていたことを知った。9月号には「闘病記」というタイトルで、体調の経緯が書いてある。もっと早く知っていれば…。
岡さんの訃報で、岡さんに思いを馳せるのと同時に、あの頃の自分の思いにも一気にワープした。岡さんへ憧れた想い、クリエイティブへの情熱と挫折、不完全燃焼…。20年以上も経つのに、今もありありと感じる。
先日、ダンナが散歩に誘ってくれた。どこへ行くの?と聞くと、岡さんの住んでたところに行こうと言う。岡さんのことを聞いて、昔のスクラップを引っ張り出したら「岡康道のコピー教室」での名簿が出てきた。そこには岡さんの当時の住所が書いてあった。今私たちが住んでいるところから、めっちゃ近いのだ。
興味本位というわけで、ちょっと行ってみた。あー、昔憧れていたときに、むっちゃ行きたいなと思ったことを思い出す。ファンなら行きたくなるものですもんね。けど、行かなかった。
当時、「岡康道のコピー教室」に来ていた岡さんファンである一人の女性、名簿で住所を知って家に押しかけ、岡さんに警察を呼ばれ逃げようとしてベランダから落ちて骨折した、なんてことがあったのだ。私はストーカーにはなりたくない、だから行けないよね。
というわけで、20年越しで行ってみた岡さんの家。今行っても何の意味もないけれど、ある時期に行ってみたいと思っていたところに行けた、という小さなドリーム・カム・トゥルーとなった。ダンナさんよ、ありがとう。
岡さん追悼で、日経ビジネス電子版では、岡さんと小田嶋さんと清野さんの鼎談「人生の諸問題」が再掲載されている。二人の高校時代の出来事を中心に赤裸々に語られていて、めっちゃ面白い。雑誌「創」などで読んだ素敵すぎる文章の裏側を垣間見るようで、声を上げて笑っちゃうのですが、、よく考えると岡さんヒデーことしてるしメチャクチャなことも。
小田嶋:そういうウソをつくのが、こいつは好きなんですよね。得にならないウソ。普通、人は自分が得になるウソをつくじゃないですか。何でこういう利益にならないウソをつくのかね。岡:何か面白いことが起きれば、それが利益なんだ。なんて言うとカッコイイだろ。
小田嶋:手の込んだことをするんだよね、何でだか……。大学時代のある時、岡から電話がかかってきて、「面白い話があるんだ」と言うから、「別に俺は興味ないよ」って切りかけたんですよ。そうしたら「本当に興味ないか」とか「じゃあ、言わないぞ」とか「とにかく来てみろ、面白いんだから」とか。そこまで言われたら、どうしたって気になるから、出かけていくわけですよ。こんな時間にかよ、とぶつくさ言いながら、車に乗って。岡を車に乗せると「右だ、左だ」と、どんどん変な方に行って、着いたのは目白の薄暗いアパート。「おい、ちょっとここで待ってろ」と言い置いて、アパートの中に入っていった岡を、何が起こるんだろうかと待っていると、段ボール1個持ってきて、「これだよ。じゃ、とにかく、もう1回車に乗ろう」って、また岡の下宿に戻ってくる。で、この箱なんだけどさ、単なる柿なんですよ、実は……。岡:柿を運びたかったんだよね、ハハハ。
小田嶋:種明かしをすると、岡の大学の知り合いで田舎から柿を送ってきたやつがいて、「お前にやる」と言われたんだけど、こいつ当時貧乏していて、取りに行く手だてがないから、俺を呼び出したんだよね。「おい、面白い話って、何だよ」とこっちが怒ると、「お前がここにこうしていることだよ」と(笑)。
岡さん、オモシロ好きなんだ!…ガッテンがいきました。私も面白いことが大好きなのです。おー、私が岡さんに憧れた理由、その根幹はここだったんだ!と、20年越しの謎が解けたようで、嬉しくなりました。
広告クリエイティブのど真ん中からすでに他の場所へ移った私だが、不完全燃焼の種火を思い出し、今の場所でメラメラと燃える炎にしたいと、岡さんの逝去を受けとめた今、あらためてそんなことを誓いたいと思う。
岡さん、ありがとうございました。
面白いことします!